消滅「マクラーレンMP4」シリーズ①:マクラーレンのF1マシン名が「MP4」から「MCL」になって思い出す「MP4」「MP4/2」「MP4/3」


Photo by Nic Redhead 

ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOを解任されてしまったことで、マクラーレンのF1マシン名が変わりました。

2017年新車は「MCL32」と呼ばれることになります。

もともとマルボロの支援を受けたロン・デニスがマクラーレンF1チームの実権を握り、以降のマシン名は「MP4」(マールボロ+プロジェクト4)を冠していました。
※プロジェクト4はロン・デニスのF2チーム名

「MP4」の30年以上の歴史は、ついに終わることになったのです。

アイルトン・セナの歴史とも共にあったマシンでした。

アイルトン・セナのチャンピオンマシン。マクラーレン・ホンダMP4/4(1988年)、MP4/5B(1990年)、MP4/6(1991年)。
Photo by CANNIK  アイルトンセナは1988年・1990年・1991年の3度、世界チャンピオンとなっています。 いずれもチームはマクラーレン・ホンダ。 カラーリングは赤と白のマルボロカラーでした(MP4はマー...

……

私がF1を知った時にはすでに「MP4」でしたので、「MCL」は間抜けな感じで違和感があります。

どうせなら「MH32」(マクラーレン+ホンダ)にして欲しかったです。

カラーリングも伝統のオレンジを使うのではないかと言われています。

2月24日の新車発表が待ち遠しいです。

…ということで、しばらくの間「MP4」シリーズのマシンをピックアップして行きます。

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MP4(1981〜1983)


Photo by Louis Rix 

最初のマシン「MP4」は1981年の第3戦アルゼンチンGPで登場しました。
ドライバーはジョン・ワトソンとアンドレア・デ・チェザリスで、2戦までのマシンは「M29F」でした。

「MP4」は3年間使用され、途中から「MP4/1」と名前を変えています。

1982年の第2戦ブラジルGPで「MP4B」が登場しました。
この年からチェザリスに変わってニキ・ラウダがドライブしています。

1983年の第1戦ブラジルGPでは「MP4/1C」にアップグレードされています。
その年の第13戦イタリアGPで「MP4/1E」となっています。

「MP4/1E」は「TAGポルシェ」ターボエンジンを搭載したマシンです。

MP4/2(1984〜1986)


Photo by Bill Abbott 

「MP4/2」は1984年第1戦ブラジルGPから投入されました。
この年からマクラーレンのドライバーはアラン・プロストとニキ・ラウダのコンビになっています。

1984年はドライバーズ・チャンピオンをニキ・ラウダがとっており、プロストは0.5ポイント差で2位になっています。

当然コンストラクターズポイントでもマクラーレン・TAGポルシェが1位です。

「MP4/2」は「MP4」シリーズ初のチャンピオンカーとなりました。

1985年からは「MP4/2B」にアップグレードされ、アラン・プロストがドライバーズ・チャンピオンを獲得し、マクラーレン・TAGポルシェは2年連続でコンストラクターズ・チャンピオンとなっています。

1986年は「MP4/2C」となりました。
この年もアラン・プロストがドライバーズ・チャンピオンになっていますが、コンストラクターズ・チャンピオンはウイリアムズ・ホンダに奪われています。

MP4/3(1987)

McLaren MP4-3
作者 John Chapman (Pyrope) (投稿者自身による作品) [GFDL または CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で

1987年からは「MP4/3」が登場します。

マクラーレンのドライバーはアラン・プロストとステファン・ヨハンソンとなりました。

「MP4-3」は強力なホンダエンジンに対抗できず、TAGポルシェエンジンはこの年で最後となっています。

まとめ

このページは「MP4/3」までをまとめました。

今では1年に一つずつ足される型番ですが、初期はマイナーチェンジでB・C・Eと進み3年もの間、同じマシン名が使われていました。

マクラーレンMP4シリーズの最初の名車は「MP4/2」です。TAGポルシェエンジンを搭載し、ニキ・ラウダ、アラン・プロストと3年連続のドライバーズ・チャンピオンを生みました。

© bluelady.jp

消滅「マクラーレンMP4」シリーズ②:マクラーレン・ホンダの黄金期「MP4/4」「MP4/5」「MP4/6」
Photo by Nic Redhead  いよいよ1988年からセナ・プロ時代が幕をあけます。 強力なターボエンジン、ホンダRA168Eを搭載した「MP4/4」は他を圧倒し、チームメイト同士の戦いがF1人気を支えることにな...


コメント

  1. 中村 より:

    こんばんは。
    私が、MP4シリーズで最も好きなマシンが、MP4/2とMP4/3です。
    理由は、マクラーレンがセナ氏とホンダエンジンと組む以前のマシンだからです。
    特にMP4/2は、1984年~1986年までの3年間連続同じ型式で戦ったマシンです(今では考えられない)

    1988年のMP4/4と比べて、車体が大柄で低くないですし、ノーズも太いです。
    ノーズが太いのは、ドライバーの着座位置ポジションがフロント寄りだったので、1988年の車体規則からクラッシュ衝突事故などで、ドライバーの足を守るために着座位置ポジション(ペダル位置をフロント車軸よりも後ろに)が後ろ寄りに下がった事でノーズが細くシャープになりました。それと、もうひとつ燃料搭載容量が少なくなった(195リットル→150リットル)のも理由ですが。

    ホンダターボが強くなるまでは、TAGポルシェがF1をリードしていましたが、パワーと燃費の両立に陰りが出ましたが、プロスト氏が見事なドライブ技術、緻密でしたたかな戦略を駆使して、ウィリアムズ・ホンダから2回目のワールドチャンピオンを奪い取ったのが印象でした。1987年のMP4/3でも年間3勝しました。

    そして、翌年からホンダエンジンがセナ氏と共に加わって更なる黄金期を迎える事になりますが。
    セナ氏と組む事になるプロフェッサー(プロスト氏)の心中は?

    • Lin より:

      中村さん、ありがとうございます。
      ニキ・ラウダのマクラーレン時代を象徴するマシンは、なかなか良いですよね。
      プロストはラウダに色々なことを学んだと思います。

    • 中村 より:

      ありがとうございます。
      やはりマクラーレンMP4の基礎、土台を築き上げたのはニキ・ラウダ氏で、それにプロスト氏が加わって、最初の黄金期を迎えた事ですね。
      ラウダ氏は、当初プロスト氏をチームメイトに迎える事に反対では無かったでしたが、消極的だったそうです。本音では、ブラバム時代でも一緒だったジョン・ワトソン氏と引き続き組みたかったそうです。
      ロン・デニス氏がギャラの高いワトソン氏をクビにして、安いギャラで将来性あるプロスト氏を獲得したかった。のが真相だそうです。

      しかし、実際組んで見るとラウダ&プロストのコンビネーションは抜群で、2人で勝利を分け合う結果となり、チームタイトルはもちろん、ドライバータイトルも僅かな差でラウダ氏が獲得しましたが、険悪なムードはありませんでした。
      翌年は、プロスト氏が念願の初タイトル獲得してラウダ氏は見届ける様に引退しました。

      立場が変わって今度はプロスト氏が、ラウダ氏とコンビを組んだ時と同じように自ら望んでセナ氏をチームメイトに推薦したと、自叙伝に書かれていました。
      結果的にはラウダ氏と同じように、プロスト氏がマクラーレンから身を引いてフェラーリに移籍した訳ですが、世間で言われたほど、セナ氏との関係悪くなかったようです。
      むしろプロスト氏がこだわったのは、セナ氏とホンダの関係だったと個人的に思っています。
      プロスト氏の思いは、ホンダがセナ氏に肩入れして依怙贔屓していると思っていたところです。おそらくプロスト氏は、ホンダに愛されてるセナ氏にジェラシー嫉妬を感じていたのではないでしょうか?焼きもちを焼いていた。笑
      なので、何かとホンダに対してクレーム要求して文句ばかり言う。のはその表れ。
      もちろんホンダ自身は公平に両ドライバーをサポートしていた事でしょう。

      今でもホンダがレッドブルと組んで優勝しても、決してホンダを誉めるようなコメントはしないです。ルノーのアドバイザーであるから当然ですが。

      もうひとつ付け加えると、マクラーレン代表ロン・デニスの気移りと対応ですが、
      ラウダ&プロストの時はプロスト氏の方をサポート、プロスト&セナの時はセナ氏の方をサポートという感じで、常に先が長く若いドライバーを優先する傾向がありました。
      セナ氏がマクラーレン卒業するのを見越して、ハッキネン氏を獲得したのも同じです。

      • Lin より:

        中村 さん。
        私はプロストがセナの追い上げにあった雨のモナコを思い出します。
        あのとき、レースが中断されなければ、チャンピオンはラウダではなく、プロストだった可能性があります。
        1984年のモナコは、ラウダ、プロスト、セナのF1人生が交錯する名勝負です。

  2. 中村 より:

    つまり、こういう事ですね。
    1984年モナコGP、最後まで中断されずに規定周回数までレースした結果、優勝セナ氏、2位プロスト氏で総合獲得ポイントが、プロスト氏73点、ラウダ氏72点、よってプロスト氏がワールドチャンピオンになっていたかも!ですね。
    雨で中断、規定周回数の半分での優勝なので、ハーフポイント4.5ポイントがプロスト氏にとって後々影響出たと言う事ですね。
    人生とは皮肉に出来ているものですね。

  3. 中村 より:

    お世話になります。
    TAGポルシェについて少し話しをさせて頂きたいのですが、
    このエンジンは、管理者Lin様もご存知だと思いますが、
    マクラーレンがTAGグループの資金でドイツのポルシェに依頼して製作させた
    80度V型6気筒1500cc、KKK製ツインターボ、ボッシュ製電子制御フェールインジェクッション&イグニッションです。

    ヘッドカバーのTAGマークが誇らしげで、Vバンク角80度は偶然にもホンダターボエンジンと同じです。
    このTAGポルシェエンジンですが、思わぬ形で1991年フットワークアローズに供給のV型12気筒3500ccで復活?しました。
    V型6気筒1500ccを2機、ドッキングさせた?
    これでいくと排気量3000ccになるのですが、おそらく3000ccのままなのか?ボアとストロークのどちらかを拡大して、3500ccにしたと考えられます。
    特徴は出力を後部からではなく、中央センターから取り出しています(なのでV6を2つ、真ん中でつなぎ合わせている)
    バンク角80度のまま、エンジンブロック、クランクケースもソックリそのまま流用!

    当時、同じV12のホンダ、フェラーリ、ランボルギーニ、ヤマハよりも重量が重たく、
    明らかに手抜き設計なので、成績は酷いもので全く使い物にならず、数戦だけ走って直ぐにフォードコスワースDFRのV8エンジンに載せ換えられました。

    余談ですが
    TAGグループからは、その後TAGエレクトロニクスが独立して、MP4/8に搭載したフォードコスワースHB V8とMP4/9に搭載のプジョーV10、それぞれのエンジン用電子制御を担当していました。グループCのメルセデスV10エンジンも担当したしたそうです。
    TAGエレクトロニクスのメンバーは、元ボッシュの技術者がマクラーレンにリクルートされてヘッドハンティングされた人達です。
    GPカーストーリーの記事に載っていました。

    もしかしたら、現在のメルセデスパワーユニットにも関わっているかもしれません。
    同じドイツなので

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