アイルトン・セナ、カートからF1への道のり。ライバルはテリー・フラートン、マーティン・ブランドル。マシンはVAN DIEMEN RF80・RF81・RF82、RALT RT3。

Ayrton_Senna_Karting
imageAyrton Senna Karting” by Instituto Ayrton Senna – Licensed under CC BY 2.0 via Wikimedia Commons.

アイルトン・セナは1960年、ブラジルの富豪の家に生まれます。
家族に「BECO」と呼ばれ可愛がられたセナは、4歳で父親からレーシングカート(芝刈り機のエンジンを載せた父親の手製カート)をプレゼントされます。
カートに魅せられた少年は、13歳ではじめてレースに参戦。いきなり優勝を果たしてしまいます。

その後、メカニックのルシオ・パスカル(チェ)との出会いを経て、ブラジルカート界で頭角を現したセナのカーナンバーは42番。セナの名前を知らないものは「ナンバー42」と呼びました。「ナンバー42」は、程なく南米のカート選手権を制覇し、世界選手権を戦うためイタリアに活動の場を移していきます。

カート時代の重要なエピソードとしては雨のレースのことがあげられます。
雨のレースでビリから1・2という結果を残したセナは、悔しさのあまり雨のコースで何度も猛練習したと言われています。
このカートでの努力が後のアイルトン・セナの強さをつくりあげていくことになります。

F1に移ったセナは、雨のレースで他を寄せ付けない走りを見せ、「雨の魔術師」として知られるようになります。その強さはマシンのパフォーマンスを凌駕していました。

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カート時代のセナのライバル:テリー・フラートン

アイルトン・セナは南米を制覇した後、1978年ディ・アンジェロ・パリーラ率いるイタリアのカートメーカーDAPと契約。ワークス・ドライバーとしてカート選手権に参戦します。
そのチームにいたのが、テリー・フラートンでした。
チームはベテランのテリー・フラートンを優先したといいますし、事実、アイルトン・セナはテリー・フラートンに勝つことが出来ませんでした。

1993年、F1オーストラリアGPのインタビューで「最も幸せだったレーシングライフはいつか」という質問に答えて、カート時代のテリー・フラートンの名前を挙げています。
プロストやマンセルではなくカート時代の彼の名前をあげたことで、セナのF1時代の苦悩が見て取れるエピソードになっています。

参照:「テリー・フラートン」www.sennafiles.com

カートで独自のテクニックを駆使したアイルトン・セナ

アイルトン・セナはイタリアでカートに乗っていた頃、誰にもまねの出来ないテクニックを使っていたようです。
それは、コーナリング中にキャブレターのコックを操作し、馬力をあげるというもの。

左手でハンドルを持ち、右手でキャブレターのねじを開け閉めする。
なかなか、まねの出来ないテクニックだったようです。

イタリアのカート界では、こんなことが出来るドライバーは初めてでした。
子供の頃からカートに馴染んだセナだからこそ、思いついたテクニックだったのかもしれません。

1979年、エストリルでの出来事

1979年、エストリルサーキットのカート世界選手権において、アイルトン・セナはトップでゴールします。ゴール直後はチャンピオンになったものと思われていました。

しかし、不条理な当日のルール変更によって優勝は取り消され、チャンピオンになることが出来ませんでした。

この時、経験したルールや体制からの不公平な待遇は、セナの心に傷を残すことになります。
後にF1に移ってからも、プロストとの争いで政治的な抑圧を経験することになりますが、レースの世界の複雑さは経験した者のみにしか分からないことだと思います。

1981年、フォーミュラ・フォード1600選手権参戦

21歳になったアイルトン・セナはイギリスに渡りラルフ・ファーマン率いるヴァン・ディーメンのワークス・ドライバーとしてフォーミュラ・フォード1600に参戦します。
マシンは「ヴァン・ディーメン/VAN DIEMEN RF80とRF81・フォード」フロント・ウイングもリヤ・ウイングもないマシンはカートで習得した技術も活かせないほど、乗りにくい代物だったようです。

初戦(P&O選手権第1戦、ブランズハッチ、VAN DIEMEN RF80)は5位だったもの、雨の第3戦(タウンゼント・トールセン選手権第2戦、ブランズハッチ、VAN DIEMEN RF81)で2戦目から投入されたVAN DIEMEN RF81のパフォーマンスを活かし初優勝を成し遂げます。
その後、12勝(20戦出走)をあげ、チャンピオンを獲得しています。

しかし、アイルトン・セナは資金難から最終戦まで出走することが出来ませんでした。
すでにF1ではネルソン・ピケが活躍中でフォーミュラ・フォード1600のニュースは母国では取り上げられることもなく、スポンサーを探すことが出来なかったのです。
F3へのステップアップを望んだセナでしたが、失意のうちに帰国することになってしまったのでした。
FF1600でのライバルは「資金」と言えるかもしれません。

VAN DIEMEN RF81:「アイルトン・セナ ーー 21年目の真実」AUTOCAR

1982年、フォーミュラ・フォード2000選手権参戦

F3へのステップアップを望んだアイルトン・セナでしたが望み叶わず、やむなく1982年は、ラッシェン、グリーンのヴァン・ディーメンからフォーミュラ・フォード2000に参戦することになります。

マシンは「ヴァン・ディーメン/VAN DIEMEN RF82・フォード」。FF1600とは違って、最初から連勝を重ねます。
結果、22勝(28戦出走)をあげ、またもやチャンピオンとなりました。

FF2000での快進撃の理由は、FF1600とは違ってクラスアップしたマシンはパワーアップした上にウイングセッティング等、細かいセッティングも可能となり、「カート時代の経験が活かせるようになった」とセナ自身がこたえています。

VAN DIEMEN RF82:「アイルトン・セナ ーー 21年目の真実」AUTOCAR

1983年、イギリスF3選手権参戦:ライバルはマーティン・ブランドル

念願のF3にステップアップしたセナはラルトから参戦。ここで、出会ったのがマーティン・ブランドルです。
ラルトのマシンRT3・トヨタを駆るセナは開幕9連勝を成し遂げますが、マーティン・ブランドルとの争いは激しさを増していきます。
通算20戦12勝で総合優勝を果たしますが、獲得したポイント数はセナ132、ブランドル127(123)で僅差のチャンピオンシップとなりました。

F3での最終戦マカオGPでもポール・トゥ・ウィンを果たし翌年トールマンからF1にステップアップすることになります。
マカオGPでは後の盟友、ゲルハルト・ベルガーと表彰台で肩を並べています。

アイルトン・セナ(1984:トールマン)、ゲルハルト・ベルガー(1984:ATS)、マーティン・ブランドル(1984:ティレル)らは、そろってF1にステップアップしF1人気を支える名ドライバーとして生長していくことになります。

RALT RT3:「WSR, 1983 アイルトン・セナ」WIKI NAVI

ウイリアムズのテストに参加するが実らず、
1984年、トールマンからF1デビュー

1983年、アイルトン・セナは名門ウイリアムズのテストに参加していますが、結局ウイリアムズから声がかかることはありませんでした。
1984年、ウイリアムズはケケ・ロズベルグとジャック・ラフィーを採用。
後にフランク・ウイリアムズはセナを採用しなかったことに悔恨を残しています。

アイルトン・セナのF1キャリアは弱小チーム、トールマンから静かに幕を開けることになったのでした。

www.bluelady.jp

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参照この記事の参考資料