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アイルトン・セナのライバルたち – 第1回 – 「アラン・プロスト」

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Photo by Stuart Seeger 

アイルトン・セナの10年のF1レース人生において、ライバルをあげるなら、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ミハエル・シューマッハだと思います。

アラン・プロストとの戦いはセナ・プロ時代を築き、ナイジェル・マンセルとはレース上で見応えのあるファイトを見せてくれました。

心残りはミハエル・シューマッハーとの戦いです。
セナの事故死によって、両者は十分に戦ったとは言えませんでした。

このページでは最大のライバル「アラン・プロスト」との戦いを思い起こします。

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1988年:マクラーレン・ホンダでのセナ・プロ①

アラン・プロストとの戦いはレースだけではなく、「確執」といわざるをえないほどの関係となっていきました。

マクラーレンの僚友となった二人は1988年の最初から仲が悪かったわけではありません。
しかし。セナは強くプロストを意識し、プロストに決定的な差をつけることに挑んでいました。

プロストを強く意識するあまり得意のモナコでクラッシュ

そのことが表面化したのは1988年第3戦モナコGP(1988.5.15)です。
セナはトップをひた走り、プロストは、はるか後方。
セナはプロストとのギャップを強く周囲に印象づけるために、さらにスピードを上げます。

ピットからのペースダウンの指示が出た67周目、セナは集中力を見出しクラッシュしてしまいます。

自分の意識でクルージングしていれば、クラッシュなど起きなかったかもしれません。
しかし、強大なライバルプロストを相手にしたセナにはそうしたことを考える余地がなかったのです。

はじめてのクレーム

セナが初めてクレームをオープンにしたのは第5戦カナダGP(1988.6.12)のことです。
5連続で勝ち取ったポールポジションでスタートしたセナは、プロストの強引なスタートダッシュで2位走行を強いられます。

18周目にプロストのインをつきトップに立って優勝したものの、ポールポジションから2位走行を強いられた不満は消えませんでした。

レース後セナは「不利な側にポールポジショングリッドがある」と訴えたのでした。

最初の亀裂

両者の競り合いが、危険な状態に達したのは第13戦ポルトガルGP(1988.9.25)のことです。

レースはスタート直後中段グループがクラッシュし、再スタートとなります。

ポールのプロストはセナを牽制し、セナはアウト側の縁石の上を走らされてしまいます。
しかし、セナはスピードを落とさずトップを奪取。

その後、プロストがアタックをかけ、セナは幅寄せし、ピットレーンのウォール側にプロストを押しやります。しかし、プロストは危険をものともせずトップを奪っています。

レース後のインタビューでプロストは「ファーストラップですることじゃない」とセナを避難しています。

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1989年:マクラーレン・ホンダでのセナ・プロ②

レースでの協定が確執を決定的なものに

両者の確執が決定的なものになったのは1989年第2戦サンマリノGP(1989.4.23)のことでした。

マクラーレン・ホンダではドライバー間で1つの約束がありました。
それは「良いスタートを決めた方が最初の1周をリードし、その順位をターン1まで維持する」というものです。

レース直後の混乱を避けるためのドライバー同士の協定だったのですが、セナはトサコーナーでトップを走るプロストにアタックをかけパスしてしまいます。
レース結果はセナの優勝、プロストは47周目スピンを喫し2位に終わります。

激怒したプロストはレース後のインタビューにも表れませんでした。

プロストは協定違反を主張しましたが、セナは「プロストが遅すぎたから協定は無効」と弁解。この件を境に二人の関係は悪化の一途を辿るのでした。

日本GPでの出来事が2人の関係を修復不能にした

第15戦日本GP(1989.10.22)、F1界に激震が走った因縁のレースである。

レースが始まる前にFIA会長:ジャン=マリー・バレストルはホンダにセナとの関係をとりざたす手紙を送っています。「ドライバーを平等にあつかえ」というのです。明らかにバレストルはプロストに荷担していました。

セナがチャンピオンに望みをつなぐためには日本GPで優勝しなければなりませんでした。
しかし、レースはプロストのリードで進行します。
そして47周目、セナはシケインの入り口に勝機を求め、プロストのインを刺します。
プロストはセナを避けることなくドアを閉じ、接触。

プロストはリタイア。

セナはマーシャルに押してもらいエンジンを再始動し、シケイン脇のエスケープロードからコースに戻ります。

ピットに戻ったセナはフロントノーズを交換し、鬼神の走りをみせ、トップでゴールします。

しかし、表彰台にセナの姿はありませんでした。

シケイン不通過を理由に失格となったのです。
同時にプロストのチャンピオンが決定したのでした。

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1990年:プロストはフェラーリへ

1990年、プロストはフェラーリへ移籍します。

プロストは第2戦のブラジルGP(1990.3.25)、第6戦メキシコGP(6/24)、第7戦フランスGP(7/8)、第8戦イギリスGP(7/15)、第14戦スペインGP(9/30)の5勝をあげています。

ただ、マシン特性が違うためか、マクラーレン・ホンダ時代のような白熱したバトルは少なく、第14戦スペインGPまでに6勝をあげたセナが優位に立っていました。

悪夢の再現となった日本GP

第15戦日本GP(1990.10.21)フロントロウはポールのセナとプロストが並びます。

スタートを決めたプロストは1コーナーへ。
しかし、セナが加速しインにノーズを滑り込ませます。

その瞬間1989年のシケインのアクシデントがよぎるようなクラッシュで、両者リタイアとなってしまいました。

しかし、この年チャンピオンを決めたのはセナだったのです。

その後、レースはサバイバルとなり、鈴木亜久里(ローラ・ランボルギーニ)が3位、日本人初のF1表彰台を獲得したのでした。

1991年:ウイリアムズ・ルノーの躍進

1991年もマクラーレン・ホンダのセナとフェラーリのプロストの布陣は続きます。

しかし、プロストのマシン(フェラーリ642)はマクラーレン・ホンダMP4/6に太刀打ち出来ません。代わりにライバルとなったのはウイリアムズに移籍したマンセルだったのでした。

このシーズンは様々な出来事があった年で、以下にピックアップしておきます。

アイルトン・セナ、歓喜の母国優勝

この年で印象的だったのは第2戦ブラジルGP(1991.3.24)です。

セナはトラブルのため6速のみでフィニッシュし、母国初勝利を飾ります。
セナは疲労のため自力でマシンから降りることも出来ませんでした。

表彰台で片手でトロフィーを掲げる姿は今でも思い出すことが出来ます。

本田宗一郎氏の死

第10戦ハンガリーGP(8.11)を目前にした1991年8月5日、本田宗一郎氏が死去してしまいました。奮起したセナはハンガリーGPで6戦ぶりの勝利をつかんでいます。

ミハエル・シューマッハ、デビュー

第11戦ベルギーGP(8.25)でジョーダンからシューマッハがデビューしています。

プロスト解雇

1991年のプロストはセナのライバルとして活躍できず、チーム内での行動がフェラーリ首脳との確執を生むことになります。
結果、最終戦でフェラーリを解雇されてしまいました。

こうして、プロストの1992年はサバティカルとなったのです。

1993年:帰ってきたプロスト

1993年は最強のルノーV10エンジンを積み、パトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイ設計のハイテクマシンFW15Cのシートにプロストが帰ってきました。

1992年無敵のウイリアムズFW14Bでワールド・チャンピオンとなったマンセルが引退し、そのシートを射止めたのです。

FW15CはFW14Bよりさらに熟成され、チャンピオンを約束されたような復帰にプロストのあざとささえ感じました。

対抗するセナは1992年でホンダがF1を撤退したためにフォード・コスワース・HBエンジンを積むマクラーレンMP4/8。

フォード・コスワース・HBエンジンはカスタマー仕様のもので、劣勢は明らかでした。(ベネトンがワークス契約を結んでいた。マクラーレンにワークス仕様のエンジンが投入されたのは9戦以降である。)

しかし、雨がらみのレースでは強く母国勝利も飾っています。

雨がらみのレース序盤連続優勝のセナ

序盤、第2戦ブラジルGP(1993.3.28)、第3戦ヨーロッパGP(4.11)の勝利は雨がらみによるものです。

セナはレイン・マイスターと呼ばれるほどの強さを見せたのでした。

モナコ・マイスターは変わらず

第6戦モナコ(5.23)はプロストのフライング、シューマッハのサスペンショントラブル等、幸運もありましたが、3番手スタートから優勝。

モナコマイスターとして連続優勝記録を5に伸ばしています。

ハイテクマシン規制の動き

プロストは開幕7連続ポールを飾り、マシンのすばらしさを印象づけます。

さらに強すぎるマシンを駆るプロストは、第14戦ポルトガルGP(9/26)ではやばやとタイトルを決定してしまいます。

ハイテク化したウイリアムズ・ルノーFW15Cは「実物大のラジコンカー」と揶揄され、ハイテクマシンを規制する動きも強まってきました。

日本GPもレース中盤雨 セナはレイン・マイスターとしてパフォーマンスを発揮

タイトルが決まり残り2戦。

第15戦日本GP(10/24)は雨がらみのレースになります。

スタートを決めたセナはポールスタートのプロストをリード。
(この年、プロストはスタートを失敗することが多かった)

しかし、13周目のタイヤ交換でプロストにリードを許します。

その後、雨が降りだし、21周目セナはプロストをパス。

40周を超えたところで雨はやみますが、セナはそのまま優勝を飾り、レイン・マイスターとしての強さを見せつけています。

セナ・プロ最後の戦い

最終戦オーストラリアGP(11/7)、セナ  vs プロストの最後の戦いである。

セナはシーズン初ポールを飾り、ポール・トゥ・ウィン。
プロストは2位でフィニッシュ。

セナ、プロスト、デーモン・ヒルがポディウムにあがったのでした。

セナとプロスト

セナとプロストは全くタイプの違うレーサーです。
予選の速さや雨のレース、市街地コースの強さではセナが勝ります。
しかし、プロストは常に好位置でレースをフィニッシュします。

1988年、ベストポイントの選択レギュレーションがなければセナはチャンピオンになれませんでした。

どちらも速いレーサーですが、天才的なレーサーといえばセナ。
戦略的なレーサーといえばプロストです。

プロストは論理的にレースを組立てることを得意とし、決して無理をしません。
雨のレースが苦手なのは、リスクを冒さない考え方によるものなのかもしれません。

プロフェッサーという異名は正しくアラン・プロストを現しているのでした。

プロストのドライビングスタイルに影響した 1984年チャンピオンシップの記憶

1984年、プロストは0.5ポイント差でチャンピオンを逃しています。

その年7勝をあげながら5勝のニキ・ラウダにチャンピオンを奪われたのでした。

優勝がなくてもラウダは必ずよいポジションでフィニッシュしていました。
プロストのレース運びはニキ・ラウダに影響を受けているかもしれません。

この年、チャンピオンシップの明暗を分けたのは雨のモナコです。

もし、プロストがレース中断をアピールしなければ、トールマンのセナが優勝し、プロストが2位だったはずです。
そうすれば、プロストはチャンピオンを取れたのでした。

この時の経験がプロストの意識に焼き付き、離れることはありませんでした。

© bluelady.jp

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コメント

  1. 中村 より:

    セナ氏とプロスト氏は対極関係にあると言うのがマスコミ、ファンなど世間一般の見方ですよね。

    では似ている所は無いのかと言えば、技術的な面において特に車のセッティングに関しては、個人的意見なのですが2人共に同じセットアップが好みだったのではないでしょうか?
    その根拠と理由ですが、
    プロスト氏の証言で自分がセットアップしたマシンでも違和感なく速く走れるのは、セナとラウダだけだ!と言ってます。
    またセナ氏自身もプロスト氏と組んでいた時、セットアップに関してプロスト氏の方が得意であると認めていて、それを逆に利用した(表現悪いですがプロスト氏に任せっきり)
    マクラーレンを知り尽くしているプロスト氏だからこそ当然と言えば当然ですが、
    セナ氏とプロスト氏お互いに認め合ってる証拠ですね。

    大きく違う面では、
    バックマーカー(周回遅れ)の処理がセナ氏が上手で、プロスト氏の方は得意でない。
    予選の取り組みでもセナ氏が上ですが、プロスト氏も本気を出せば(特に地元フランGPにおいて)ポールポジションを取る能力はありますね(毎回取るほどの執着心は無いみたいですね)
    スタートについては、イーブンでしょうか?

    このように一見違うタイプかと思われますが、奥深いところでは案外似た者同士と言えるかも知れないですね。お互いに負けず嫌いな所も。笑
    1988年のマクラーレン・ホンダは、本当の兄弟のようでした(プロスト氏が沈着冷静な兄で、セナ氏がやんちゃな弟のように)

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